手塚治虫と福岡伸一の生命観に迫り、マンガ『火の鳥』と『動的平衡』を読み比べ、実際に展覧会でその生命観がどのように描かれているのかを語り合おう!でスタートした今回の番外編。

動的平衡=『すべては、摩耗し、酸化し、ミスが蓄積し、やがて障害が起こる。つまりエントロピーは常に増大するのである。生命はそのことをあらかじめ織り込み、一つの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまりそれが「動的平衡」である』 新版 動的平衡 276ページより引用
手塚治虫 著 『火の鳥』では、数々のキャラクターの死生観が読者に哲学的な問いを投げかけてきます。不老不死、時間、種の絶滅と再興、クローン問題・・・でも、そこの根底に流れるものは、「人間の死なんてちっぽけだ。宇宙にとってそれは意味をなさない」ということ。もっと大きな流れの中で、生命は絶えず滅びに向かい、そしてかたちを変えて再生するということ。
未完の『火の鳥』現代編の結末の予想が、まさに、それを体現していると思います。手塚治虫は読者に向けて、人生のライフワークであった『火の鳥』の結末を現代=自分と持ってくることで、それがいかに小さな事か、そして大きな流れの中の一部であるのかを最後に伝えたかったのではないか。
正直、これを、これからの生活の何に活かせばいいのかまでは分かりません。分かりませんが、分からないからこそモヤモヤ考え続けないといけないことかもしれません。
生命観や死生観をこれまで漠然と考えてきましたが、この展覧会と展覧会後の熱い漫画トーク(笑)で少しは、はっきりしてきた気がします。手塚治虫は何て、偉大な漫画家なんでしょう。
参加者 Aの振り返り
「火の鳥展」を見てきました。
もう一週間前の話で、振り返りの期限もとっくに過ぎてしまいました。自分なりに言語化し意味付けしようとしていたのですが、なかなかどうにもなりません。なので、「『火の鳥展』を見て」というより、振り返りを書こうとする中で考えたことを書きます。
「火の鳥展」に向けて、年末に『火の鳥』を初めて最後まで読み、改めて読む中で、いかに自分が手塚治虫の漫画とともに育ってきたかを実感しました。
手塚治虫はそれぞれの著書の中で、人間が「生き延びよう」「“美しく”いよう」「機械化することで便利で豊かな生活を得よう」「単一的なものを作ろう」とする様子をしばしば描き、「自然」に抗うことの愚かさを伝えてきたように思います。そして、『火の鳥』という作品がその他の作品に散りばめられているメッセージの集大成であるかのようにも思うのです。
「生命が『流れ』であり、私たちの身体がその『流れの淀み』であるなら、環境は生命を取り巻いているのではない。生命は環境の一部、あるいは環境そのものである。」新版 動的平衡p .280
「アンチ・アンチエイジングこそが、エイジングと共存する最も賢いあり方だということである。」新版 動的平衡p .279
にもかかわらず、環境の一部であることを認めらず、無駄に抗う人間を、火の鳥は「失敗だ」と嘆きます。(『火の鳥』未来編)確かに、『火の鳥』と「動的平衡」は通底します。
しかし、ふと考えると抗うことが愚かであっても、その愚かさもまた「人間らしさ」であるようにも思えます。短視眼的な失敗を繰り返す「人」を嘆く火の鳥ですが、逆にそれが人の業であると、永遠に生きる火の鳥が気付かないことはないと思うのです。きっと、人の愚かさに気付きながらも、手塚治虫は火の鳥として「より良い世界」への希望を託したのでしょう。
今、率直に感じるのは、「火の鳥」という作品がとにかく壮大で、正直、自分の理解度では、内容を追うだけで精一杯になってしまいました。広い視点というより、個人の視点で見ていたように思いますし、広い視点で理解し、語るのにはまだまだ理解度と福岡伸一さんの作品にしても、『火の鳥』にしても読み込みが足りません。
幼い自分が読めなかったものが今読めるように、月日を重ね読み深めることでまた見えるものが違って来るのかも知れません。
参加者R