良い授業をまねしても、なぜ同じようにうまくいかないのか「教育実践の文脈と教師の省察」

年度末になると、学校研究の発表を参観する機会が増えます。公開授業を見て「これはすごい授業だ」と感じた経験はないでしょうか。そして、その方法を自分の教室でも試してみたものの、思ったほど子どもたちが動かなかった。そんな経験をされた先生方も少なくないはずです。私自身もその一人です。優れた授業を見るほど、「なぜ自分の教室では同じようにいかないのだろう」と戸惑うことがあります。

これは授業研究に限ったことではありません。海外の教育実践を紹介した書籍を読んだときにも、同じような感覚を抱くことがあります。優れた実践が紹介されているのに、なぜそのまま広がらないのでしょうか。

最近、哲学対話について学ぶ機会がありました。日本で広がっている比較的自由なスタイルの哲学対話は、ハワイを経由して紹介された実践であることを知りました。一方で、本来の哲学対話は、哲学的な問いを丁寧に扱いながら、関連する知識にも触れつつ思考を深めていく営みだとされています。しかし、そのような実践が日本で広く根付いているかというと、必ずしもそうとは言えません。このことを知ったとき、海外で生まれた教育実践はなぜ同じ形では広がらないのかという疑問を抱きました。

教育研究では、教育実践はその場の「文脈」から切り離せないと考えられています。LaveとWengerは、学びを個人の頭の中の活動ではなく「社会的実践への参加」と捉えました。学びは、人間関係や活動のルール、学校文化といった環境の中で形づくられるものだという考え方です。またNuthallの教室研究では、子どもの学びは教師の説明だけで決まるのではなく、友だちとの会話やこれまでの経験、個人的な関心など、多くの要因が重なり合って生まれることが示されています。

つまり、外から見える授業の形は結果に過ぎません。その背後にある人間関係や活動の文化こそが、学びを支えているのです。

この点について、StiglerとHiebertの比較研究は興味深い示唆を与えています。彼らは日本、アメリカ、ドイツの授業を比較し、それぞれの国に固有の「授業文化」が存在することを明らかにしました。教師の問いかけ方や問題の扱い方は、個人の技術というよりも、その社会の教育観や価値観の中で長年育まれてきた文化なのです。そのため、他国の優れた方法を形だけ取り入れても、本来の意味や役割がそのまま再現されるとは限りません。

日本の教育学者である佐藤学も、教育実践はその場の文脈に強く依存する営みであると指摘しています。授業は単なる指導技術の集合ではなく、教師と子どもの関係性や学級文化、学校の歴史などが重なり合う中で成立します。ある授業が成功しているとき、その背景には教材の工夫だけでなく、長い時間をかけて築かれた信頼関係や、その教室に特有の学びの文化が存在しています。こうした基盤を無視して方法だけを取り出しても、同じ結果を生み出すことはできません。

それにもかかわらず、私たちはしばしば「優れた方法を正しく適用すれば、どこでも同じ成果が得られる」と考えてしまいます。ドナルド・ショーンは、このような考え方を「技術的合理性モデル」と呼び、その限界を指摘しました。現実の専門職の仕事は、理論通りに進む整然とした世界ではなく、予測できない出来事が次々に起こる「泥濘の地」で行われるものだといいます。教室もまさにそのような場です。子どもたちの反応は常に予測を超え、授業はその場の状況の中で形づくられていきます。

では、他者の実践から学ぶ意味はどこにあるのでしょうか。重要なのは、実践をそのままコピーすることではなく、その背後にある原理を理解することです。教育プログラム研究では、これを「忠実性」と「適応」のバランスとして説明します。元の実践の核心となる考え方は大切にしながら、具体的な方法は自分の教室の文脈に合わせて再構成するという考え方です。

例えば、ある教師がペアワークによって豊かな対話を生み出していたとします。学ぶべきなのは「ペアワークという方法」そのものではありません。なぜそのタイミングでペアをつくったのか、どのような言葉を拾って対話をつないだのかといった、判断の背後にある原理です。その原理を理解したうえで、自分の教室の子どもたちの関係性や学習状況に合わせて実践を組み立てていくことが求められます。

その過程で重要になるのが、ショーンが提唱した「省察」です。教師は実践を振り返りながら学び、さらに授業の最中にも状況を読み取りながら判断を修正していきます。授業の中で「何かうまくいかない」と感じたときこそ、教師は子どもたちを注意深く観察し始めます。そうした問いと振り返りの積み重ねが、実践を少しずつ深めていきます。

海外の教育実践や他者の授業から学ぶことには大きな意味があります。自分の教室だけでは気づきにくい視点や可能性に出会えるからです。ただし、それをそのまま取り入れることが目的ではありません。大切なのは、その実践の背後にある学びの原理を理解し、自分の教室の子どもや学校文化に合わせて再構成することです。

教育に、どこでも通用する唯一の正解はありません。しかし、それはむしろ希望でもあります。目の前の子どもたちの文脈を最もよく理解しているのは、その教室にいる教師だからです。他者の実践はコピーするものではなく、自分の教室を見直し、新しい学びを生み出すための手がかりなのです。

対話は聞き手の贈与から始まる 「子ども同士の探索的会話の構造」

子どもたちが安心して探索的な会話をしている場面に立ち会えることがあります。そこには、単なる「意見交換」だけでは説明できない対話の構造があるように感じます。大切なのは、発言が活発であることではありません。むしろ、未完成な考えを差し出しても大丈夫だと思える空気が、すでにそこにあることです。子どもたちが探索的に対話している姿に出会うたびに、この対話を支えている関係性の構造とはどのようなものなのか、あらためて考えてみたくなります。

手がかりになるのは、マルセル・モースの贈与論です。モースは『贈与論』において、人間社会は「与える」「受け取る」「返す」という循環によって成り立つと述べました。贈与は、単なる物の移動ではありません。それは、その人の一部を差し出す行為なのです。時間や手間をかけて用意された贈り物には、思いや労力、その人が過ごしてきた時間が込められています。私たちは物だけを受け取るのではなく、その人の痕跡までも引き受けているのです。だからこそ、受け取ることは関係を引き受けることになり、返すことはその関係を未来へとつなぐ応答になります。重要なのは、贈与が単なる交換ではなく、人と人との関係を生み出す構造をもっているという点です。

この視点を対話に適用すると、通常の理解とは逆転が起こります。私たちはしばしば、話し手が言葉を差し出すことを対話の出発点だと考えがちです。しかし子ども同士の探索的な会話を観察すると、対話は発話から始まっていません。むしろ、聞き手が先んじてに差し出す「安心の構え」から始まっています。

この安心とは、「あなたをばかにしないよ」「あなたを『できる/できない』という尺度だけで評価しないらかね」「あなたの失敗も受け止めるから」という態度のことです。これは単なる優しさではありません。相手を格付けせず、急いで結論づけず、沈黙や迷いをそのまま受け止めること。つまり、関係がこれからも続いていくという未来を、先に差し出す行為のことです。相手が安心して言葉を差し出せるように、「この発言によって私たちの関係は壊れません」という前提を、まず先んじて聞き手が先に引き受けます。その受容の態度そのものが贈与だと僕は考えています。対話の聞き手は言葉ではなく、関係の可能性を贈与しているのです。

この安心を受け取ったとき、話し手の内側で何かが起こります。言葉は命令や報酬によって引き出されるのではなく、自然に立ち上がってきます。むしろ「起こしている」というより、「起こってしまう」と言ったほうが近いかもしれません。それは、意図的に操作した発話でもなければ、外から強制された受動的な反応でもありません。他者から贈られた安心によって思考が触発され、思わず「語ってしまう」出来事が生まれます。この構造は中動態的です。主体が完全に支配しているわけでも、外部に動かされているわけでもありません。聴き合う関係の「あいだ」において、言葉が立ち上がってくるように見えるのです。

ここで再びモースに立ち戻ってみます。贈与は、一度きりで完結するものではありません。受け取ったものは、何らかのかたちで返したくなります。この返礼は、等価である必要はありません。同じだけの量や価値を返すことが求められているのではなく、関係を続けようとする応答そのものが大切にされています。子ども同士の対話でも同じことが起こります。安心を受け取った子どもは、その安心に触発されて、自分の言葉を差し出すと、その言葉が次の贈与となり、相手は再び安心を贈ります。この循環が続くとき、対話は閉じることなく、探索的に広がっていきます。

大切なのは、こうした安心の構えは、ある日突然身につくものではないという点です。子どもは、無条件に受け止めてもらう経験を重ねるなかで、少しずつ他者に対して開かれていきます。教師や親から受容される経験や、その姿をモデルとして見ることが大きな意味をもちます。安心して語ってよいのだという体験をもつことで、子どもは今度は友だちの言葉を受け止めようとする側へと育っていくからです。大人たちから贈られた安心が土台となり、それが子ども同士の関係の中で生かされていくのです。過去に受け取った贈与が、その子の内側に静かに蓄えられ、やがて他者に差し出す力へと変わっていく。ここにもまた、モースが示した循環の構造が息づいています。

この視点から見ると、対話は「うまく話す力」の問題ではないことに気付けます。どれだけ先に安心が贈与されているかという、関係の問題だからです。成果主義的な評価構造のもとでは、人は評価されにくい安全な発言だけを選ぶようになります。あるいは、傷つくことを避けて沈黙します。しかし、安心が先に差し出されている場では違います。未完成の思考や、まだ形になっていない問いが、そのまま差し出されます。正解かどうかよりも、考えている過程そのものが受け止められるからです。探索的な会話が生まれるのは、言語能力が高いからではありません。関係の中に、すでに贈与の循環が成立しているからです。安心が贈られ、それに応じる言葉が生まれ、さらに安心が返される。その構造があるとき、対話は深まっていくのだと思うのです。

子どもたちの探索的な対話を見ていると、そこには一定の循環があるように感じられます。まず、聞き手が安心を差し出します。その安心を受け取った子どもの内側で、言葉が中動態的に立ち上がります。意図的に操作された発話でも、外から強制された反応でもなく、思わず生まれてしまう言葉です。そしてその言葉が、返礼として場に差し出されます。こうした循環が重なっていくことで、対話の場が形づくられていきます。この構造が見えてくると、子どもたちの対話は単なる偶然の活発さではなく、関係が生成している出来事として理解できるようになります。対話とは、贈与が循環するときに立ち上がる、関係そのものの運動のようなものなのです。

哲学対話はどこから来たのか フレイレ『被抑圧者の教育学』を読んでみた

教室で哲学対話に取り組むことが増え、あらためてじっくりと学んでみたいと考えていました。近く、哲学対話について早稲田大学の山辺恵理子さんのお話をうかがう機会があり、その事前資料として、哲学対話のルーツを検討する文章を読むことになりました。そこでは、哲学対話の背景として、パウロ・フレイレの思想が参照されています。銀行型教育を批判し、学習者が現実の中から課題を発見し、生成テーマを手がかりに対話を通して世界を捉え直していくという、問題提起型の学びを構想していた点において、フレイレの教育論が哲学対話と深く重なっているからです。そこで予読として手に取ったのが、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』でした。読み進めるうちに、現在の教育と驚くほど深くつながっていることに気づかされました。

『被抑圧者の教育学』は、半世紀前に書かれた文章ですが、その読後感は古典というよりも、むしろ「今の教育をそのまま映し出している」と言ったほうが近いように感じました。本書が描き出した教育の構造が、形を変えながら、今も学校の中に存在しているからなのだと思います。フレイレが問題にするのは、教え込みや知識詰め込み型の教育が生み出す関係の歪みのこと。授業が「教える側の正しさ」を効率よく移し替える作業になったとき、子どもは学ぶ主体ではなく、内容を受け取る器として扱われるようになってしまいます。学びは次第に、理解の喜びや世界への驚きから離れてしまい、「できたか、できないか」「点が取れたか、取れなかったか」といった成果主義の尺度に回収されていきます。すると、成果に直結しないものやすぐに役立たないもの、評価の枠に入りにくいものは学ぶ意味を失っていきます。学びが「関連のあること」だけに限定されてしまうと、子どもは自分自身の興味や問いを育てる余白を奪われ、やがて興味そのものを失っていってしまうのです。

この構造を、フレイレは「銀行型教育」と呼びました。教師は知識を預け入れる側、子どもはそれを受け取って貯める側となります。知識は生きた経験や対話から切り離され、正解として保存されていきます。銀行型教育の問題は、知識の量が増えることではありません。知識を扱う人間関係が固定されることにあります。教師は権威として前に立ち、子どもはそれに追いつこうとします。子どもは「まだ足りない者」「教えてもらうしかない者」として自分を理解してしまい、この関係が繰り返されると、教室は安心して考える場ではなく、評価される場、間違えてはいけない場へと変わっていきます。その結果、子どもは沈黙していってしまいます。この沈黙は、単に発言が少ないということではありません。自分の言葉に価値があると感じられず、考えが途中のまま表すことを恐れ、不思議に思う問いを言葉にする権利を、自分から引き下げてしまう状態のことです。沈黙が広がる教室では、自己肯定感は弱まり、批判的思考も育ちにくくなります。ここでいう批判とは、誰かを否定することではありません。いまあるものを問い直し、別の可能性を探る力のことです。問いを口にできない場では、その力は育ちようがありませんね。フレイレは、教育が抑圧的な社会を再生産してしまう危険性を強く指摘します。教室の沈黙は、社会の沈黙とつながっているからです。選挙前にこの本に出会えて、本当によかったと思うのです。

これに対してフレイレが提示するのが、民主的な教育であり、その中心に置かれるのが対話です。対話とは、互いの経験や言葉を尊重しながら、世界を共同で読み直していく営みのことです。教師がすべてを知り、子どもが受け取るという関係をほどき、教師も学び手であり、子どももまた教え手になり得る関係へと転換していきます。対話の場では、知識は預金のように蓄えられるものではなく、生活や現実と結びつきながら再構成されていきます。だからこそ、対話は子どもが自己肯定感と批判意識を取り戻す契機になります。自分の経験が語られ、受け止められ、別の視点と結びついて言葉になっていくとき、子どもは「自分には語る資格がある」「自分の言葉で世界に関われる、変えられるかも!」と感じ始めます。沈黙が破られるのは、勇気が生まれたからではなく、対話が成立する条件が整うからなのです。

フレイレのもつ思想の魅力は、対話を単なる方法としてではなく、力として捉えている点にあります。「対話的言語」は、社会を変革する力をもつと彼は述べます。言葉は世界を説明するだけでなく、世界の見え方そのものを変えていきます。見え方が変われば、何が問題で、何が可能で、誰と手を結べるのかが変わっていくからです。だから対話は、教育技法の一つではなく、民主主義の基盤なのです。現代の教室は、すでに社会問題と切り離せない場所になっています。経済的格差、分断や差別、環境問題、戦争と平和など、子どもたちは日々、多くの情報と様々な感情にさらされています。その意味で、学校が社会問題を積極的に話し合おうとしていること自体は、時代の要請だと言えます。ただし、ここで問われるのは「何を話すか」だけではなく、「どのように話し合うか」です。話し合いが正しい結論へ導くための誘導になってしまえば、それは別の銀行型教育になります。子どもが自分の言葉で迷い、葛藤し、他者の言葉に揺さぶられながら現実を読み直す経験が、失われてしまうからです。

フレイレの対話は、教育の中心を「結論」から「過程」へと戻します。その過程の中で、子どもは自分の言葉を持ち、他者の言葉に出会い、世界の複雑さに向き合う力を育てていきます。銀行型が沈黙を生むとすれば、対話は声を生みます。声が生まれる教室は、ただ賑やかな場ではありません。互いの経験を持ち寄り、問いを共有し、理解の枠組みそのものを編み直していく場となります。そこでは、教師の役割も変わります。権威として子どもを超えていく存在ではなく、問いを磨き、関係を整え、学びの共同体を支える存在になります。

子どもを動かすのは、評価や管理ではありません。「自分の言葉が届く」という実感です。

半世紀前に書かれたこの文章が、今も読み継がれているのは、フレイレの教育論が、単なる学校教育の方法論ではなく、人間の尊厳や人権の回復と深く結びついているからだと思います。その一方で、本書が独裁主義国家において発禁本とされ、焚書の対象にもなってきたという事実は、フレイレの思想が、教育を通して人間を再び主体として立ち上がらせようとする、きわめて政治的な力をもっていたことを物語ってくれています。フレイレが求めたのは、知識を効率よく教える教育ではありません。人が自らの言葉を取り戻し、対話を通して世界と関わり直していく、民主的な教育のこと。子どもに言葉を返すこと、沈黙を破り、対話を回復することは、学習方法の改善にとどまらず、人間が人間として生き直すための条件でもあります。教室で言葉が生き始めるとき、社会を変える力は、遠い理想として掲げられるのではなく、日々の学びの中で静かに、しかし確かに育ち始めるのだと思います。さて、選挙にいってきます。

謎めいた教師こそが、学習者の自学自習を育てる

先日、思想家であり武道家でもある内田樹先生の話を、LAFTラジオで直接うかがう機会を得ることができました。私は教員になって以来、内田先生の著作を読み続けてきた一人で、何が語られるのか楽しみにしていました。

講演では、「教員の役割とは何か?」という問いでした。内田先生は、教育の本質は自学自習にあり、教師の仕事は「教えること」ではなく、子どもたちの「学びが発動する環境を整えること」だと語られました。教師は知識を与える存在ではなく、学びが起こる条件を準備する存在である、という考え方です。この言葉は、日々授業改善や授業法に悩む私たちにとって、根本から立ち止まって考え直す契機になるものでした。

その話の中で紹介されたのが、「張良」の逸話です。能楽にもなっているこの話は、中国・漢代の武将である張良が、黄石公という老人から兵法の奥義を授かるまでの出来事を描いています。黄石公は奥義を授けると言いながら、長い間、何一つ教えません。ある日、張良の前でわざと靴を落とし、「拾って履かせよ」と命じます。さらに別の日には、両足の靴を落とさせます。張良は内心の葛藤を抱えながらも、それに従います。そしてその瞬間、張良はすべてを悟り、兵法の奥義を会得した、という不思議な話です。

内田先生は、この逸話を通して、学びが起動する瞬間について語られました。師匠の行為は偶然ではなく、すべてがシグナルであり、弟子は「これは何を意味しているのか」と問い続ける中で、自ら学びを深めていく。師匠がすべてを説明してしまえば、弟子は考える必要がなくなります。だからこそ、真の師弟関係では、師はあえて謎めいた存在である必要があるのだ、と。

私たちはつい、「わかりやすく教えること」「丁寧に説明すること」を善としがちです。しかし、あまりにわかりやすく整えられた授業は、子どもたちから「考える余地」を奪ってしまう可能性があります。先生が何を言いたいのかを即座に理解できてしまう状況では、自分で問いを立てる必要がなくなるからです。

ここで内田先生は、精神分析家ジャック・ラカンに触れて師弟関係を語られました。学びは一人で完結する営みではない。たとえ一人で考えているように見えても、そこには必ず言語や評価、教師、共同体といった「他者」の場が介在している。自主学習とは、他者を排除することではなく、他者との関係の中で自分の問いを立てていく営みです。教師の役割は、答えを与えることではなく、「問いが続く場」を支えることにあるのです。

わかりやすく教える弊害について、合気道の道場でのエピソードも示唆的でした。初心者と経験者の力量差を考慮し、初心者だけを集めてわかりやすく教える場を用意したところ、逆に初心者が次々と辞めてしまったという話。人は、自分にはまだ理解できない複雑な世界が目の前にあるからこそ、そこに惹きつけられる。わかりやすさは、ときに世界を狭く規定してしまう。教師が「ここまでが君にわかる範囲だ」と先回りしてしまうことで、学びの地平を閉じてしまうことがある、という指摘は、少人数指導や個別最適化を進める今だからこそ、重く受け止める必要があると感じています。

教師の仕事は「説明上手」になることではなく、子どもが「自分で考えたくなる」状況をどうつくるか、という一点に尽きるということです。すべてをわかりやすく整えるのではなく、あえて複雑なまま差し出す勇気を持つこと。子どもが問いを抱え続けられる場を守ること。そのための環境づくりこそが、私たち教員に求められている専門性なのだと、強く感じさせられる時間でした。

概念を学んだだけでは、学びは自然には転移しないの?

LAFTの新シーズンが始まり、りえこのガイドで「概念型探究」をテーマに動き出した。そんな中で、僕がふと「授業で学んだことなのに、なかなか転移しないんだよねー」という話をしたとき、りえこから返ってきたフィードバックが刺さった。「本当に行動に移させたいなら、授業そのものの設計にそれを組み込まなきゃいけない」と指摘され、膝を打った思いがした。

振り返ってみると、こういうことよくあるな。プロジェクト・アドベンチャーを取り入れたりしてきたけれど(PAJ30周年おめでとうございます!)、行動変容まで到達しない場面は多かった。あのもどかしさの正体は、僕のプログラム設計そのものの弱さだったんだなぁ。一方で、「でも、そこまで構造化しないと、学んだことって行動に結びつかないの?」という戸惑いもある。

気になったので、前回までのLAFT学習科学で扱ってきた文献をひもとくと、『授業を変える: 認知心理学のさらなる挑戦』に書かれていた。「転移はデザインされなければ起こらない」。学んだ内容を複数の文脈で使わせること、どこで使えるかを予測させること、実際に試させ、振り返らせること。そしてそのループを授業の中に埋め込むことが必要だという。授業内で完結した学びほど、転移しにくい。なるほど、これは読んではいたけれど、なんとも実感が薄かったなぁ。

いま取り組んでいる6年生の平和教育にもそのまま重なる。5年生から哲学対話を積み重ね、中村哲さんの資料の読み合いを重ねてきた。そのうえで6年生では修学旅行を後に、「自分は何を考え、これからどう行動したいのか」を問う場をつくっている。しかし、その蓄積が日常の関わりや、3学期の「まとめの会」のあり方にどれだけ結びついているのかと考えると、まだ十分ではないなぁ。概念を学び、自分の言葉で再構成し(一般化)、それを行動につなげる。こういった授業設計を、意識していきたい。

もちろん、転移には多様な議論がある。その中のひとつの視点を理解したにすぎないけれど、それでも大きなヒントになった。学んだことを別の文脈で応用し、複数の知識を組み合わせ、「自分の問題」として引き寄せられるようになって、初めて転移は起こる。これは教え込むだけではどうにもならない。

プログラムデザイン、授業設計、ちょっと見通しをもって意識して取り組んでみたいとおもう。このことに気づけたのが、今日いちばんおもしろかった。あと3回のLAFTがどう変わっていくのか。今はそれが楽しみだな。ちなみに僕の概念型探究のテーマは「数学的パターン」みたいなものを扱いたいなぁ。

教師として「やりたいこと・大事にしたいこと」をみつけるために、僕が大事にしてきたこと

LAFTの次のシーズンテーマは「概念型探究」に決めた。そのキックオフとして、秋吉梨惠子さんに「概念型探求のはじめの一歩」という話をしてもらった。その中で印象に残ったのは、「いずれにしても、概念型探究に取り組むには、自分が何をやりたいのかが大事」という言葉だった。

学校で何かを実践するには、当然ながらカリキュラムの枠がある。公立にも私立にもそれぞれの制約や文化があり、教えられる内容や方法には幅がある。だが、その中で何を子どもたちに伝えたいのか、自分はどんな学びを願っているのか、そこを見つけることが出発点になる。その言葉は、「本当に自分がやりたいことを見つけていかなければ、概念型探究も続かない」というメッセージとして響いた。

つまり概念型探究を支えるのは、教師自身の自分の探究かもしれない。教科の概念を深めようとすることと、自分の教師としてのあり方や信念を見つめ直すこと、実は地続きの営みなのだと思う。

振り返ってみれば、僕自身もまさにそうだった。この十年は「数学者の時間」実践に軸足を置き、そこにさまざまな学びをリンクさせてきた。それができたことはとても幸運なことだったと思う。けれど、ここにたどり着くまでには多くの試行錯誤があったのも事実。

20代、30代のころの僕は、決められた公立学校の枠の中でいかに自分の思う「より良いもの」を形にするかにこだわっていた。反骨心を燃やし、時には自分を保留し、うまく人と折り合いながら、自分の立場を確立しようと必死だった。

一方で、今の学校現場は、状況そのものがかつてよりもずっと厳しい。忙しさのあまり、教師同士で語り合う時間や、外へ学びに出かける機会が極端に減ってしまっている。そんな中で、あえて立ち止まり、自分の内側を見つめ直す時間を持つことが難しくなっている。本当は、こういう自分自身の実存と教師とのつながりを見つけることこそ、大事なのに。

けれど、だからこそ、外の風に当たることが必要だ。やってみたいことや「もう少し深く知りたい」と思うことを調べたり、本を読んだり、学びの場に身を置いたり、そんなチャレンジが、自分の原点を見つけるための第一歩になるはずだと思う。

僕がこれまで自分の「やってみたいこと」を見つけてこられたのは、やはり人との関わりのおかげだ。教育相談室で、まだ右も左もわからない僕をまるごと受け止めてくれた木津先生だった。東京教師塾で、徹底してやり抜く力を教えてくださった原田隆史先生と塾生たち。夜7時に始まり朝5時に終わる勉強会、あの場には唯一無二の熱量があったし、今の自分を逸れ抜きには語れない。

その後、ゴリやKAIと共に、PA(プロジェクト・アドベンチャー)やワークショップ授業に触れ、仲間とともに実践を深めていく面白さを知った。吉田新一郎さんとの出会いも、自分にとっては大きな転機で、学校というフレームを相対化し、自分の立っている場所を新たな視点から見つめ直すことができた。そして今も、LAFTや職場の同僚たちと刺激し合いながら、新しい学びを共につむいでいる。

思えば、僕が「教えたいことのこだわり」を持ち続けてこられたのは、何かの本で学んだからでも、研究の成果だけでは決してない。人との関係ややりとりの中で、触発され、自分が育てられてきたからだ。ひとりでは決して辿りつけなかった場所に、誰かとの縁が導いてくれたんだとおもう。

「自分のやりたいことがわからない」と感じている人がいるのなら、ぜひ外へ出て、誰かと語り合ってみてほしい。職場の外の学びの場に身を置き、他の教師や研究者、様々な人たちと関わってみてほしい。その中に、きっと自分の心を動かす何かがあるはず。

教師としてやりたいことは、最初から見つかるものではない。人とのつながりや響き合いの中で、少しずつ形づくっていけるもの。学校の先生として生きることは、関わりの中で自分自身を更新し続けることなんだとおもう。

教師によるカンファランス(個別支援)だけでは本質的に補えないこと

教師によるカンファランス(個別支援)だけでは本質的に補えないこと

先日のLAFTトラジオ×一柳智紀さんの講演を聞いてから、ずっと頭の中で考えていることがある。ワークショップ授業における「教師のカンファランス」と「子ども同士のピアカンファランス」の意味である。

これまで自分は、ワークショップ授業とは「教師が一人ひとりの子どもを支える対話」、つまり形成的評価の実践が中心にあるものだと理解してきた。教師が子どもの現状を見極め、次の一歩を共に整理し、必要な手順や選択肢を示しながら励ます。そうしたやりとりが、学習者を支える大事な学びだと信じてきた。

けれども実際に教室を見ていると、子どもたちは教師がいなくても、自分たちで学び合い、支え合っている。むしろ教師の手を離れたところでこそ、子どもたちの学びは深く動いているようにも見える。このことが、最近ずっと気になっていた。どうして、よく学び合えるんだろう。

※もちろん中には関係の無いおしゃべりをしていて注意される子もいるが、これはこれで中動態的学び場をつくるためにも、ある程度認めているところ。

「数学者の時間」の授業で良問を扱うとき、子どもたちは自分の頭で考え、試行錯誤したくなる。そのときに生まれる子ども同士のやりとりは、誰かが一方的に教えるというより、「一緒に考える」「一緒に迷う」「あーでもない、こうでもない」といった探索的な会話だ。まさに共に考える文化がそこにある。

ここでいう「探索的会話」とは、答えを持たないまま、互いの考えをもとに新しい見方をつくっていくような対話のこと。

これに対して、教師のカンファランスはどうしても「発表的会話」になりやすい。つまり教師がある程度ゴールや方向を持ち、それを子どもが気づけるように導いていくタイプの対話になりやすい。もちろんそれは大切な営みであり、多くのつまずきを乗り越える支えになる。だが、教師の側が答えをすでに持っている点で、探索的なやりとりとは少し性質が異なる。

昨今では、やり方を一方的に教え込むような指導はほとんど見られないだろう。けれど、もしそれをしてしまえば、子どもにとってはただのその場しのぎにしかならない。クロスワードの答えを言われたり、まだ読んでいないミステリーの犯人を先に明かされるようなものだ。学びの喜びがそこにはない。

そう考えると、教師による個別カンファランス(発表的会話)だけでは、ワークショップ授業は成り立たないのだと思う。

子どもたち同士のピアカンファランスで探索的会話を通して、共に考え、聴き合う文化が教室の中に育っていく。その文化があるからこそ、教師のカンファランスも機能する。発表と探索の両者は対立するものではなかったんだな。カンファとピアカンファのように、相互に支え合う関係にあるんだと気付いた。

一柳さんの話を聞いたことで、自分の中でワークショップ授業の「解像度」がぐっと上がった気がする。

今書いている「数学者の時間」の原稿も、気づけば教師のカンファランスばかりに焦点が当たっていた。これからは、子どもたち同士のピアカンファランスの側面をもっと描き切る必要があるなぁ。

まだまだ先は長くなっちゃった。

なんで「LAFTラジオ」なのかとお金の話

LAFTラジオという名前でオンライン学習会を始めた。カナダから梅木さんに8月、9月と連続して講座・質疑応答などをやっていただいた。参加者から何人かから個別に質問されたことなのでここで答えてみたい。

なぜラジオなの?

もちろん実際には映像を共有しながら音声だけではなく顔を合わせてやっているのだけれど、この呼び名には僕なりのこだわりがあった。尊敬してやまない内田樹からの影響がある。何かの媒体かは忘れてしまったけれども、ラジオというのは、テレビほどコンプライアンスが厳しくなく、ネットほど玉石混交でもない。その中間にあって、本音をぶちまけられるメディアとして機能してきた。さらにラジオは手づくりも出来る(8月の『子どもの科学』は手づくりラジオの特集でしたね)。そんなニュアンスを込めてオンラインなのに「ラジオ」と呼びたくなって命名した。ありがたいことに、その内田先生も12月に講演をしてくださる予定。

二か月続けて企画した梅木さんから「講師料はどこから出ているのか」と聞かれた。LAFTラジオは基本無料だが、講師への敬意は大切にしたい。知的な学びはこれまで自腹をきってきた。だからこそ、ちゃんとした対価を支払いたいと思っている。だからLAFTの対面ワークショップの会費から謝礼を捻出している。もちろん赤字ギリギリで、そろそろ持ち出しになりそうだ。ちなみに会計報告をシーズンのメンバーにはお知らせしている。

それでも続けたいと思うのは、昨今、若い人向けの学びの場はたくさんあっても、中堅やベテランの教員が学べる場はなかなか見つからない現状があるから。LAFTも続けて15年目。今ではベテラン教員にとっての学びの場でありたいと願っている。少しでも教育の現場を良くしていきたい。そのために学び続ける教師としてありたい。そういう仲間と切磋琢磨したい。それが僕のささやかな本音。

無料オンラインは参加しやすい一方で、どうしても参加者のコミットメントが薄くなりがち。画面オフで耳だけってラジオなんだからもちろんOKだけど、なんかさみしい。登録だけして抜けてしまうのは残念にも思う。一方でLAFTの対面の学習会では、シーズンごとにじっくりと対話を通して学ぶ場を設けてきた。継続した学びの中でテーマを磨き、深めていく。その積み重ねを大切にしてきたし、これからも続けていけるといい。

けれども先立つものはお金なのよね。だからこそ、無料で出会った人たちには、ぜひ対面ワークショップに参加してこれからの人への投資だと思ってお支払いしてほしい。そうして交流する中で、日本の教育を少しずつ良くしていければと思う。その結果、LAFTという場も学びの面でも財力面でも安定していくはず。

僕ひとりで運営しているので、「動画を配信してほしい」「日程が合わない」といった要望に応えられないことも多く、その点は心苦しいところ。いずれこういった事務作業を支えてくれる仲間が増えてもっと手助けしてもらえるようになれば、対応もすんなりできると思う。いま安心して任せていられるのは、「LAFT200回記念の温泉旅行」(笑)。

大事なのは、仲間と共に学びの場を継続していくこと。そしてきちんとマネタイズしていくこと。質の高い学びは、無理なく持続できる仕組みがあってこそ。僕自身、かつては東京教師塾で原田先生の元、無料で学ばせてもらってきた。お弁当もいただいてきた。その期間、なんと6年間! その恩を還したいからこそオンラインは無料にこだわりたい。一方で、対面での学びはしっかり参加費をいただき、その収益をまた次の学習会に還元していきたい。

だから無料で参加している人たちも、寄付のつもりで、ぜひ一度は対面に足を運んでほしい。そして一緒に学び合いを支えていければうれしい。

今後の予定をこちらに貼っておくので、よかったら興味がある回にぜひ参加してください。

https://www.facebook.com/togetoge.teacher/posts/pfbid034yCPdRYDRDFKsauJchuYgpG8a4Tt7FkpRY5pB6EiHXwGprDUbtiKJqNsDGGWwcD9l

子ども同士の対話の質を問い直す「発表的会話」と「探索的会話」

 東京大学の一柳智紀さんから「コミュニケーションの質」について学ぶ機会があり、その内容は今後の自分のワークショップ授業におけるピア・カンファランスの質を高めるうえで大きな示唆となりました。ここでは、その学びを整理して共有してみます。

私たち教師は、授業中に「間違ってもいいよ」と言いながらも、「できた人は?」「わかった人、教えてくれる?」と問いかけてはいないでしょうか。この問いかけは無意識のうちに「できた子」に焦点を当ててしまいます。その結果、いままさに考えの途中にいる子や「わからない」と感じている子にとって、「間違ってもいいよ」という言葉は空語になってしまいます。授業は誤りを資源として扱いながらゴールへ向かう営みです。しかし、1時間単位で成果を求められる圧力の中では、つい「わかった人に説明してもらう」ことで授業を前に進めがちです。そのとき置き去りになっているのは、「もっと考えたい」「じっくり悩みたい」と願う子どもたちです。

ここで、教室の対話を二つの型で捉え直す必要があります。一柳さんの研究によると、整理され磨かれた考えを明瞭に伝えるやりとりを「発表的会話」と呼びます。たとえば「ここは7と6を足す。繰り上がりを直せば13だよ」というように、筋道だった説明を一方向に提供する場面です。思考の整理や共有、まとめには大きな価値がありますが、子ども同士のやりとりが「正答の発表会」にとどまり、思考のプロセスを共に辿らないと、学びが浅くなりやすいという側面があります。

一方で、未完成の考えを試し合い、互いに補い合いながら進むやりとりを「探索的会話」と呼びます。「うーん、違うかな」「ここ72でかけるんじゃない?」「ここを16にして…」「これ埋めるんだけど」「そうそう、埋めて…それで戻すときに引く?」といった、言い淀みや仮説的な表現を含みつつ、プロセスを共有し合う会話です。結論より過程が往復し、根拠を出し合い、誤解が修正され、新しい見方が立ち上がります。探索的会話があるとき、子どもたちの思考は豊かに広がり、深まっていきます。

重要なのは、どちらが優れているかではなく、役割の違いを踏まえて意図的に併用することです。発表的会話は思考を整え、伝える力を育てます。探索的会話は考えを生み、共に創る力を育てます。ところが多くの教室では、時間的制約や評価の枠組みの影響で発表的会話に偏りがちです。だからこそ、授業デザインの中に「未完成の考えを出してよい時間」と「まとめて伝える時間」を明確に位置づけ、行き来できるようにすることが大切だと考えられます。

このとき土台となるのが「聴く文化」です。聴くとは、単に相手を見て頷く作法ではなく、相手の言葉に応答し、問い返し、言い直しを支える実践です。「わからない」とつぶやいた声に、隣の子が「こういうこと?」と代弁し、さらに別の子が根拠を足す。こうした経験が重なるほど、子どもたちは安心して未完成の考えを口にできるようになります。教師もまた、子どもの発話に即座に評価を与えるのではなく、「いまの『わからない』はどこから来ているの?」と問い、プロセスを一緒に確かめる聴き手でありたいと思います。

理解の到達を子どもと共有する指標として、「わかる」のスケールを次のように示すことができます。

1 わかっている

2 わかっていることを説明できる

3 わかっていることを教えることができる(多くはここで止まりがちです)

4 わかっていることで、わからない人の問いに応じて援助できる

この「4」に届いたとき、教室の学びは真に協働的になります。小さな声や不安な声が仲間に支えられ、代弁や言い直しを通して言葉になっていく場面を、意図的に設計していきたいのです。

発表で思考を整え、探索で思考を広げる。この往還を授業に組み込み、聴き合う文化を育てることで、子どもたちは互いの考えに働きかけながら学びをつくっていけます。評価や時間の制約に押されて「できた人」中心の進行に戻りそうになったときこそ、「未完成の考えが歓迎される時間」と「まとめて伝える時間」の二つを思い出し、両輪で授業を設計していくことが大切なのです。これが、ピア・カンファランスの質を底上げし、教室全体の学びを一段深める道筋になると考えられます。

学習科学における文化とはなにか 「この子らしさ」を見失わないために

教室で、「あの子、なんだか話し合いが苦手そうだな」「この子は、やる気がないわけじゃないのに集中しづらそうだな」と感じたことはありませんか? どんなに教材研究をしても、ていねいに説明しても、なぜか学びがうまくいかない。そんなとき、私たちは「子ども側の問題かな」と思ってしまいがちです。でも、もしかすると、子どもを取り巻く「文化」のことが見落とされているのかもしれません。

学習科学(Learning Sciences)は、学びのしくみを多角的にとらえる学問です。学校での授業だけでなく、家庭や地域、友だちとのやりとりなど、“生活のなかの学び”全体を対象にしています(Sawyer, 2018)。その中でとても重要な観点のひとつが、「学びは文化や文脈と切り離せない」という考え方です。子どもは、家庭や地域、育った環境のなかで自然に「学び方」や「考え方」の型を身につけていきます。つまり、子どもがどんなふうに学ぶのかは、その子が過ごしてきた文化と深くつながっているのです(Nasir et al., 2006)。

文化と聞くと、外国の習慣や伝統行事といった「特別なもの」を思い浮かべるかもしれません。でも、学習科学における文化とは、もっと身近な、私たちの暮らしのなかで当たり前になっている「ものの見方」や「ふるまいのパターン」を指しています。たとえば、「分からないことはまず自分で調べてみよう」と育てられた子と、「分からなかったらすぐに人に聞いてみよう」と言われて育った子では、学び方そのものがまるで違います。何をどう学ぶかにまで文化は影響を与えているのです(Cole & Packer, 2005)。

この文化の力は、学校現場にも色濃く表れます。たとえば、教室には教室なりの“空気”があります。「発言は手を挙げてから」「正解が出せる子ができる子」「静かにしているのがよい子」などなど。こうした雰囲気は明文化されていなくても、多くの子どもたちはそれを敏感に感じとっています。でも、その“空気”がしんどくなる子もいます。じっと座っているより体を動かしたい子、静かに考えていたい子、人前で話すのが苦手な子。そうした子たちが、「やる気がない」「聞いていない」「理解していない」と誤解されてしまうこともあります。

学習科学では、学びを「頭の中で知識を増やすこと」とはとらえません。むしろ、学びとは、誰かと一緒に行動しながら、文化的な実践に参加していくプロセスだと考えます。レイヴとウェンガーは「正統的周辺参加」という言葉でそれを説明しました。新しくその世界に入る人が、最初は「まわり」に参加しながら、少しずつ経験を重ねて「まんなか」のメンバーになっていく。その過程こそが学びなのです(Lave & Wenger, 1991)。

この視点で見ると、子どもたちが教室のなかでどう関わっているかが違って見えてきます。たとえば、意見を言えなかった子が、ノートに小さなメモを書いていたら、それは周辺参加のサインかもしれません。学級活動で発言せずとも、友だちの声にうなずいていることも、その子なりの参加かもしれません。学びは「中心」にいなければいけないのではなく、むしろ「まわり」からゆっくり育っていけるような環境こそが大切なのです。

さらに文化は、子どもの発達そのものにも影響を与えます。たとえば、アフリカのある地域では、赤ちゃんの手足を日常的にマッサージしたり、早くから運動を促す習慣があり、歩き出す時期が欧米よりも早いことがわかっています(Karasik et al., 2010)。また、アメリカの親は創造性を重視し、「型を破る」ことに価値を見出すのに対し、バヌアツの親は「正確に模倣すること」が知性の証だと考える傾向があるという研究もあります(Clegg et al., 2017)。

つまり、どんな子どもに育つかは、持って生まれた資質だけではなく、関わる大人のまなざしや、文化的な期待によって大きく形づくられているのです。教室で出会う子どもたちのふるまいを見たとき、「なぜこの子はこうなんだろう?」と考えるとき、そこにはその子が属してきた文化があるかもしれない。そう思うだけでも、私たち教師の見方は変わります。

教師にできることは、子どもの背景に想像力をもつことです。家庭の文化、地域の文化、そして教室の中の「当たり前」までを問い直す力です。ある子にとって当たり前だったことが、教室では通じない。ある子にとって居心地のよい空間が、別の子にとっては窮屈かもしれない。そうした違いに気づき、教室の中に「多様な学び方があっていいんだ」という文化をつくることが、子どもたちの可能性を開いていくのだと思います。

文化は変えられます。そして、文化を変えていくのは、毎日のちょっとした問いかけや対話、まなざしの重ねです。子どもの学びに違和感を覚えたときこそ、その背景にある文化に目を向けてみる──。それはきっと、目の前の子どもにとっての「本当の学び」を支える第一歩になるはずです。